だから、引きこもりの人が全て外に出られるようになるというのは
幻想だと思っていい。
文豪が活躍した時代の書生などというのも、一種の引きこもりの
変化型みたいなものだろうし、恥の文化によって外に出ようとしなかった
人もまた多かったはずなのだ。
みんながみんな、リア充になるべく闊歩しているなどと考えるのは一種の
妄想であって、現実の世界はもっと複雑で、センシティブだと思う。

女性の側でいったら、皆専業主婦時代であれば、それ中に隠れる形で
引きこもりの人もたくさんいただろうし、男性だったら、長男が一種の権力者
になる形で、経済的に支援を受ける次男、三男以降もいたのではなかったか、
と推測する。

それらの人たちの総数をもし数えることができたなら、相当数に上ったはずであり、
今とは違った時代であっても、形を変えた引きこもりは存在したと私は考えている。

他の記事では、親の責任、子供の先天的な性格、などにスポットを当てたが、それは
ミクロな視点での分析であり、一転してマクロな視点で「本当に引きこもりって今の
時代だけの特徴的な存在なのか」と考えると、そう断言できる要素は思いの外少ない。

むしろ、引きこもりと当時は呼ばれなくても、当時の生活スタイルの中に隠れる形で
今の引きこもりと呼ばれる生活スタイルが存在していたのではないか、と考えるほうが
より自然に見える(私には)のであり、逆に言葉がなかったから「引きこもり」はいなかった
などと宣うのは、短慮で分別に欠ける考えだと思う。