つい最近、「ひきこもりUX会議」なる団体を見つけて活動を見てみたのですが、
耳に心地よい言葉が列記されていて、引きこもりをまるで生クリームでデコレート
したような表向きにうげってなりそうになりました。
ひきこもりを美化したって何も出てくるわけないだろう・・・。

生きづらさって、本人が周りの顔色を伺っているからであって、一人が自分から声を上げて
人生の表現や体験の表現をすれば、それ自身が輝きを持ってくるだろうに、そんなこと
も分からずに、一緒に話しましょうって言ったって、傷の舐め合いにしかならないと
思うんだよなぁ。自己満足というのか。

引きこもりは当面の生活は親に面倒見てもらっている人が大半なので、直近で困っている
っていう人にはお目にかかったことがない。それだけに知らない間に年齢を重ねてしまって、
今もう40代半ば以降という人たちが数多くいる。いわゆる氷河期世代だ。
本来なら、恋愛し、結婚し、子育ても終わり、子供は大学生になっている、それくらいの
世代で、立派に親を勤め上げましたというくらいの年齢のはずなのだ。

それが、悲しいかな、親元でスネをかじりまくって、親の金でご飯を食べ、お風呂に入り、
ネットを使い、ゲームをする、そして、ひきこもりUX会議のようなところで繋がりを求める
というえらい贅沢で消極的な生活をしていると本人達も気が付かないで、安易な繋がりに
安住しようとしている。これではいけないと思う。

本当に大切なのは、「つながりをつくること」ではない。つながろうとするときに生まれる、
自分のやる気や意識の改革、生活の改善につながるモチベーションのはずだ。
いくら引きこもりの同業者とつながって偉そうに語って、傷口を舐めあっても、その後に
帰る家では、ママがご飯を作ってお風呂を沸かして待っていてくれるのではあまりに情けなさが
過ぎるのではないか。

やはり、引きこもりが真に自信を持って自分のことを自分の言葉で語るためには、自分の食い扶持
を自分で稼ぐことができてこそのような気がする。

ただ、一概に言えないのが、この年齢では親の介護の問題が発生してくるということだ。親と一緒に
住むということはイコール親の介護もするということに他ならない。介護は綺麗事では済まされない。
イライラが募ったりなど日常茶飯事だろうし、暴言をぶつけることだってあるだろう。実家ぐらしでは
そこから逃れる術がない。親にとっても、子供にとっても実家ぐらしは監獄と化す。

引きこもるときに、親の力を借りるというのはよくよく考えてほしい。将来その場所が地獄絵図になる
かもしれない。もちろん、そういう洞察力がある人はそもそも引きこもりに陥らない気がするのだけれど。